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日蓮宗の仏事

運想

 

●運想 (うんそう、うんぞう)

唱え奉る妙法は、是れ三世諸仏、所証の境界、上行薩〓、
霊山別付の真浄大法也。一たびも南無妙法蓮華経と唱へ奉れば、
即ち事の一念三千、正観成就し、常寂光土現前し無作三身の覚体顕れ、
我等行者、一切衆生と、同じく法性の土に居して自受法楽せん。
此の法音を運らして、法界に充満し三宝に供養し、普く衆生に施し、
大乗一実の境界に入らしめ、仏土を厳浄し、衆生を利益せん。

(漢文)
奉唱妙法。是三世諸仏。所証境界。上行薩〓。霊山別付真浄大法也。
一奉唱南無妙法蓮華経。即事一念三千。正観成就。常寂光土現前。
無作三身覚体顕。我等行者与一切衆生。同居法性土。自受法楽。
運此法音。充満法界。供養三宝。普施衆生。令入大乗一実境界。
厳浄仏土。利益無尽

漢文底本
「充洽園礼誦儀記」優陀那日輝著 池上学室蔵梓
明治三年 日薩校訂

※〓=土+垂
※旧字や異体字は常用漢字に書き換えた
※漢文の「利益無尽」部分は、現在「衆生を利益せん」と読んでいる。

 

● 運想の出処

 明治維新のとき、日蓮宗も廃仏毀釈により存続の危機を迎えていた。そのとき、日蓮宗を存続させるために白羽の矢が立った教学が、主流の有力な諸本山や檀林の教学ではなく金沢の充洽園の教学 だった。運想はその充洽園の優陀那日輝上人(1800‐59)が作ったと聞き及ぶ。

 明治維新から最近に至るまで、充洽園教学は日蓮宗の教学の中心であったが、最近はそうではなくなつつある。権威者がこう言った!ということよりも、文献学的な批判に耐えられる教学を研究しているのが現在の日蓮宗の教学者 の大勢である。その意味で運想を作った優陀那教学も再考を余儀なくされ、運想も検証が必要であると思う。

 日蓮宗僧侶の法要作法たる法要式では優陀那日輝師の「充洽園礼誦儀記」が基本となっている。地方や本山ごとに違う法要式を統一するために「宗定法要式」なるものが戦前に編纂されたが、その基本となったが「充洽園礼誦儀記」であり、当然そこに運想が入ってい る。それ故に、運想は全国の日蓮宗にひろまったと考えられる。そして現在の檀信徒用の経典に刷ってあるのである。

● 運想の意味合い

 「運想」というものはどのような意味合いで唱えるものなのだろうか?
 先述の「充洽園礼誦儀記」(和綴じ本)をみると、

運想に十意あり

一に十方三世諸仏菩薩一切の三宝、道場に影現し、
証知証鑑し給ふことを念ず。
 
二に天井地界諸天神祇、一切の冥衆、道場に影現し、
経音を聴受し、法楽を納受し、行者を護念し給ふことを想す。

三に道場中一切の法器、衣服袈裟坐座堂宇、一切清浄にして
法性の依報、寂光の宝境なることを念ず。

四に自らの色身、全清浄法身、三千円融せる、
微妙の覚体、無作の仏身なることを念ず。

五に読誦し受持する妙経玄題三業の行行は、並びに是れ三世の諸仏、
道場証得の妙法普賢の行法なりと念ず。

六に能持能誦する念念の心は法性縁起の妙心、
十方三世、円融無碍の浄心なりと念ず。

七に念念の運心、声声の誦音、十方の仏土に周〓し、
三宝を供養して仏事を縁起し、衆生を利益して、国界を厳浄することを念ず。

八に法音周〓して、一切行者の心内に入り、色身を冥利し、
心を浄くして身を安んじ、功徳利益無量無碍なることを念ず。

九に道場内外、霊空地界の鬼神異類、蚊虻螻蟻飛禽獣類並びに法音に触して、
冥益顕益、無量無碍なることを念ず。

十に見聞博知し、往来行住する道俗衆人随喜心を生じ、信心を増し、
善念を長し、乃至種種の冥益空(むな)しかざることを念ず。

要を以て之を言わば、一二は仏神各応、三四は身土並浄、五六は人法倶貴、
七八は依正兼福、九十は冥顕双益也。若し文を作て唱えんと欲せば真際の三宝、
護法の冥衆、道場に影現し、供養を納受し給ふ。土は是れ常寂光土の宝刹、
身は是れ無作三身の覚体なり。所持の経法は、是れ三世諸仏、所証の境界、
能持の信念は是れ一念三千、法界唯心なり。故に声声念念、法界に周〓し、
三宝を供養し、衆生に布施し、仏土を厳浄し、道場内外、霊空地界の鬼神異類、
見聞随喜の善男善女、利益平等、功徳無尽ならん。

底本
 「充洽園礼誦儀記」優陀那日輝著 池上学室蔵梓 明治三年 日薩校訂

  ※〓=ヘン(彳+編-糸) あまねくの意味
    補助漢字 区点=2916 16進=3D30 シフトJIS=8F4F Unicode=5FA7

  ※旧字や異体字は常用漢字に書き換えた

● 唱えるべきかどうか再考

 私如き末学がこういうことを言う資格はないのであるが、四の「無作の仏身」、運想本文の「無作三身の覚体顕れ」があたりが問題であろうと思う。 優陀那日輝上人は中古天台本覚思想の論者ではないと聞き及ぶが、「無作三身」は中古天台本覚思想に不可欠な述語であり、誤解を招く。
 無作とは、修行や働きかけをしなくても、そもそも元から・・・・である。それに気づかないだけ。そのようなニュアンスが付きまとうのである。もちろん天台三大部に「無作」は142箇所出現する。しかし、「無作三身」という語は一箇所もない。日蓮聖人の遺文にも『当体義鈔』『授職潅頂口伝鈔』のみであり、前者は真偽の問題が喧しい御書であり、双方とも真撰が伝わらない。

 さらに、近世の日蓮宗屈指の学匠の文章といえども、日蓮聖人の御妙判を拝読するかわりに「運想」を拝読するということはできないように思う。
 実際、昨今は段々と運想は唱えられなくなってきたと思う。声明師として日蓮宗の宗門法要など大きな法要に出仕・参加する機会が幾度となくあったが、「運想」を唱えられることは なかったと記憶する。それよりも、法要趣旨にそった日蓮聖人の御妙判の一節を拝読することがほとんどである。

 上記のことを考えて、私は運想ではなく御妙判(文献学的に真撰とされるもの)を拝読することにしている。

 

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