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日 蓮

神祇勧請と木釼修法

 

神祇勧請

 江戸時代の庶民信仰として、神祇にお参りしたり、加持祈祷を受けて病気平癒を祈ったりすることが流行ったようである。江戸時代が始まると同時に日蓮宗寺院に神祇が奉られるようになったのは偶然ではなく必然でもあったのではなかろうか。

通称 寺院名 年代
能勢妙見山 真如寺 慶長年間(1610年頃)再興
熊本清正公 本妙寺 慶長5年(1600)熊本移転
岡山最上稲荷 妙教寺 慶長6年(1601)再興
柴又帝釈天 題経寺 寛永6年(1629)草創
入谷鬼子母神 真源寺 万治2年(1659)開基
久々知妙見宮 広済寺 正徳4年(1714)再興

 江戸時代は寺請制度の時代である。他宗のお寺の檀家を布教して、自らのお寺の檀家にすることはできなかった。そんな制度下でも、神祇の講中に参加させたり、加持祈祷受けさせることはできたと思われる。神祇や加持祈祷を巧みな手段として、最終的には法華経・お題目とその教えの有り難さを布教することを目指したのではないだろうか。それが奏功すれば、戸籍は他宗寺院檀家でも一代法華として実質的な信徒にすることができたのである。

木釼修法

 日蓮宗は木釼修法の宗派だと誤解している方が多いと思う。しかし、日蓮聖人もその直弟子も木釼修法をしていないし、中世の日蓮宗にもそんなものはなかった。鎌倉時代にはじまった日蓮宗の歴史に対して、木釼修法の歴史は浅く近世(江戸時代)にはじまったものである。日蓮宗の修法の先師をたどれば下記の二師に行き当たるそうだ。

仙寿院日閑(1577?-1673?)

積善坊(身延山)流開祖
七面信仰が江戸初期に伝播したのは、日閑の修法によるところが多い

遠寿院日久(1663-1727)

遠寿院(中山法華経寺)流開祖
身延流の相伝も受け、中山流を身延に伝え祈祷相伝を交流

本質を大切に

 神祇の積極的勧請や木釼修法が近世初期の時代の要請であり、現代でも、それらにより新たな檀信徒を獲得している日蓮宗寺院も多い。ただ、このことは諸刃の剣として問題も提供している。

 ことに、鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代までの伝道教団であった法華教団が、近世になって神祇勧請や修法に力をいれるあまりに祈祷教団と誤解されるようになったことが深刻な問題である。

 今なお、修法師(木釼による祈祷師)の師匠も弟子もその檀信徒も日蓮宗は祈祷教団だという誤解をしているのではないかと感じることが少なくない。曰く、「私は布教師ではなく修法師である」「あの坊さんは修法師ではないから一人前ではない」と・・・。しかし、布教師でない法華僧侶などありうるのか?。宗祖の日蓮聖人、六老僧は木釼を振るための荒行をしていないから一人前ではないのか?。そんなことは決してないのである。

 神祇勧請や木釼修法に終始することがあるとするなら、それは仏教でもなく、法華経でもなく、日蓮聖人の仏教でもない。法華僧侶や先達が法を説くとき、インド仏教学、法華経、天台三大部、日蓮聖人五大部などを逸脱してはならない。それら教相から逸脱した、修法道で得た自説、世法、霊感、占いなどを説くとすれば、それは中古天台本覚思想以下である。

 もちろん、神祇を奉ることや修法(祈祷)は、信徒でない人を檀信徒にする(未信徒教化)のに有効な布教法である。木釼修法は日蓮宗に活気を与えているのも事実である。要は、僧侶と檀信徒の意識の問題である。

霊験ある法華経その意味は?

 法華には新興教団が多いことからも、法華経とお題目の信仰に素晴らしい霊験がそなわっていることが想像できるかもしれない。実際、木釼をふる修法師でなくとも、僧侶でなくとも、読経唱題でその霊験を目の当たりにすることが少なくないと筆者も感じる。その霊験を目の当たりにしたとき、自分の霊験の力と思ってしまうことは増上慢である。霊験はあくまでの法華経とお題目の力である。それなのに、私利私欲の願をかけてその成就を願うことに終始したり、拝み屋をして生活の糧にしたり、あるいは教団を作って名利を貪ったりすることは三大煩悩(三毒)の一つたる貪欲の発露であり仏教的でない。木釼修法の開祖ともいうべき仙寿院日閑上人の言葉である。

修験の法は平等の慈悲心を第一となす。一念に名利を亘れば必ず現罰あるべし。

 法華経の霊験は、法華経の妙なる教えの素晴らしさへ誘う方便である。法華経の一念三千の素晴らしさを知ろうにも、そこに学問や修業で達することは大変である。僧侶にとってすら才能と機会に恵まれなければ容易に会得できない。よって、方便(巧みな手段)として法華経 とその守護神はこのような霊験を示すのではないだろうか。

 涅槃にいたることを理想とするのが仏教であり法華経の目的である。涅槃とは、生死を離れた静かな安らぎの境地である。生まれた限りにおいて、老病死の苦しみが必然である。愛別離苦(愛する者とわかれる苦しみ)、怨憎会苦(憎むべき人に会う苦しみ)など、四苦八苦に満ちているのが生存の苦しみである。その生存に対して、今生は「思うがままにならない(duhkha)」という苦を抜き楽を与える仏法の本質にいざなう方便(upaya 巧みな手段)として霊験を示し、やがて四苦八苦が必定である生を再び受けずに生死を遠離して涅槃に導く。その方便や瑞相として霊験があるのではないだろうか。法華経は以信代慧といって、信を以て智慧に代えるという信による救済を説く。その信を起こさしめるために霊験をあらわしているのではないだろうか。

 

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