チベットの地理
ヒマラヤ山脈の北に位置する広大な高地。低い気圧と容赦なく照りつける紫外線。そんな環境の中でしたたかに生きてきたチベットの人々とその文化と仏教は、単なる秘境としての興味の対象にとどまらない。チベットは政治的にも文化的にも中国に大きな影響をおよぼしてきた。
チベットというとチベット高原のチベット自治区のみを考えがちであるが、チベット民族やそれに近い民族ということを考えると中国の四川省、青海省も含まれてしまう。チベット文化ということになれば、インドのラダック地方やネパールの一部、ブータンも含まれるそうだ。
チベット仏教の歴史
吐蕃
仏教移入の端緒
7世紀前半、中国の唐代にチベットを最初の統一したのは吐蕃のソンツェンガムポ(Srong btsan sgam po)(581-649)だった。王家は唐やネパールから王妃を迎え、それが仏教伝来の端緒となる。
8世紀中頃、仏教国教化を決意したのティソンデツェ王はインド系仏教を移入して、インドのナーランダー寺院の長老シャーンタラクシタや、パドマサンバヴァがチベットに招かれた。
8世紀末にはサムイェー僧院が創設されて6人のチベット人が具足戒を受けてサンガ(仏教僧の僧団)が発足したと伝わる。
仏教を保護して国教化にまで踏み込んだ背景には、国家を統治するに際しての仏教の規範をしめして、仏教の力で秩序を保とうとしたのである。
禅の移入と論破
787年、吐蕃は敦煌を占領したが、敦煌の禅僧の摩訶衍がチベットに招かれ、その中国の禅は一時的に弘まった。しかし、その反世俗倫理が問題と考えた王はインドからカマラシーラという学僧を招き、摩訶衍を論破させた。
統一政権の崩壊
仏教は吐蕃の歴代の王によって保護されてきたのであるが、国家経済は衰退してゆき、ダルマ王の二人の王子による世継ぎ争いで吐蕃は分裂した。以後、1642年にダライラマによる政権が確立されるまでの長い機関、チベットの統一政権はなかった。
西チベット
分裂後のチベットでは10世紀の西チベットにウスン王系の勢力が小王国を築く。経済的にも安定し仏教を保護した。リンチェンサンポの留学、トリン僧院の創設、アティーシャの招請などがなされた。やがて、戒律復興運動や僧団(サンガ)の創設などは中央チベットにも広がりをみせる。
氏族と仏教教団
11世紀末には、統一政権のないチベットにあって、様々な氏族が特定の宗派の施主となって、それにまつわる利権を得ようとした。このため、宗派は純粋な宗教的な集まりよりも政治的な権力と不可分に発展融合してゆくこととなる。
転生活仏の制度は、そのような利権を確実に相続するために考えられた所産であるそうだ。
チベット仏教の宗派
カダム派 (bKa'gdams)
チベット仏教を再興した指導者、アティーシャ(982-1054)の弟子が教団を形成。派祖はドムトゥン(1005-1064)。後にゲルク派に吸収されて現在には伝わらない。
アティーシャの『菩提道灯論』(ラムドゥン)は、部派仏教(小乗)から密教までの全仏教を意義あるものとして、それぞれを菩薩の実践という観点からまとめられたもの。ただし、密教を仏教が最も発展した姿だと主張している。後のチベット仏教を方向付ける。
サキャ派 (Sa skya)
クンチョク・ギェルポ dKon mchog rgyalpo (1034-1102)が在家の密教道場として創建したサキャ寺を本拠とする宗派。クン氏を施主とした。妻帯して後継者を設けた。
| 祖師 | クンガ・ニンポ | Kun dga snying po | (1092-1158) | |
| 二世 | ソナム・ツェモ | bSond nams rtse mo | (1142-1182) | 祖師クンガ・ニンポ次男 |
| 三世 | タクパ・ギェルツェン | Grags pa rgyal mtshan | (1147-1216) | 祖師クンガ・ニンポ三男 |
| 四世 | サキャ・パンディタ | Sa skya pandita | (1182-1251) | 三世タクパ・ギェルツェンの甥 |
| 五世 | ドゴン・パクパ | 'Gro mgon 'Phags pa | (1235-1280) | 四世サキャ・パンディタの甥 |
これら五祖師が重要視されている。
なかでも四世サキャ・パンディタ の格言はダライラマ6世の詩とともにチベット文学の最高峰である。
| 8 | 功徳ある人のところには 人を集めなくても、集まってくる。 香しい花は遠くにあっても、蜂は雲のように集まってくる。 |
| 48 | 偉大な人は一時的に衰えたとしても彼に心配する必要はない。 月が一時月食となっても、その直後に解放される |
| 49 | 偉大な人が敵に優しくするならば、敵自身が彼の支配下になるだろう。 多くのものによって尊敬された王が全てを守ったので、 全てのものによって王として位につく。 |
| 203 | たくさんの人がひとつの気持ちになるなら、 弱い人でも大きな目的が達成できる。 アリの軍団は集まったことで、ライオンの子供を殺したといわれる。 |
※サキャ格言集 今枝由郎訳 岩波文庫(赤 90-1)参照
チベット人はサキャ・パンディタをサパンと親しみを込めて縮めて呼ぶ。明晰な頭脳によって論理学(因明)を修め、詩人でもあった。その才能は仏教指導者としてのものだけでない。
1239年にモンゴル族の元がチベットに侵攻してきた。元軍は引き上げるに際して、使者をよこすように言い残した。そしてその使者に選ばれたのが、当時の仏教界随一の学者のサキャ・パンディタである。サキャ・パンディタは、まだ幼少だったドゴン・パクパを伴い交渉に赴く。そして、チベットはなんとか持ちこたえることができた。
しかし、そのことに留まらず、ドゴン・パクパは元朝のフビライの帝師となってチベット支配を代行するに至る。
チョナン派 (Jo nang)
サキャ派の第五世ドゴン・パクパの弟子のトゥクジェ・ツゥオンドゥ Thugs rje brtson 'grus (1292-1361)を開祖とする宗派。極めて弱小な宗派であるが、学説は特徴的である。祖師のひとりトルプパ Dol phu pa(1292-1361)は「他空」説を説いた。これは中観仏教(一切は空であるとする龍樹の般若経系の仏教)を展開させたものであり、後述のツィンカパによって批判される。
カギュ派 (bKa'brgyud) (カルマ派、パクモデゥ派など支派がたくさんある)
キュンポ Khyung po (990-1139) とマルパ Mar pa (1012-1097) はともにインドに留学して無常ヨーガのタントラを学んでチベットに伝えた。
ナーローの六法
カギュ派のナーローの六法はユングも興味を持ったそうである。日本人にとってはオーム真理教のポア(ポワ)という隠語のもととなった興味を示す人も多いだろう。
| 内的火 | トゥンモ | 内なる熱 |
| 幻身 | マーヤー | 身体レベルの体験として深めるヨーガ |
| 夢 | ミラム | 自分の意志で夢を作る修行 |
| 光明 | ウセル | 万物は違ったものとして見えるが、 根元は一つでブラフマン(梵)が作ったもので、 それは光と考える |
| 中有 | バルド | 死後四十九日までを瞑想で体験する |
| 遷有 | ポワ | 死後を瞑想で体験する |
転生活仏制度
ダライラマに象徴される活仏制度であるが、最初に創設したのはダライラマのゲルク派ではなく、カギュ派の一派であるカルマ派である。初代はカルマランジュンドルジェ Rang 'byung rdo rje (1284-1339)である。下の表では第3世に当たる。おそらく、第1世と第2世は滅後に活仏に祭り上げられたのだろう。
預言などによる転生をもとに活仏が決められるのであるが、実際には極めて政治的な配慮で次の活仏が決められていた。ともかく、独特の相承形態は氏族の教団にとって、政治的にも経済的にも権力を円滑に次代に委譲し、氏族の結束力を高め、氏族と教団の勢いを高めることと、その保持に貢献した。
例えば、先代活仏の生まれ変わりだと説明されると、施主は他の教団に移りにくい。また、教団の側も有力者の子を活仏に選んで、その有力者を施主にして教団の勢いを高めて保持できた。
シチェ派 (Zhi byed)
派祖は女性のマチク・ラプキドゥンマ Ma gdig Lab kyi sgron ma (1055-1143)である。断境説 gcod yul (チューユル)という、心を頭頂から抜き出して瞑想の中で鬼魔に肉体を施すことを修行する。自分の肉体への我執を無くする意味がある。この特異な教義をもつ宗派も一時は勢力を持った
ニンマ派 (rNying ma)
古代に翻訳されたタントラに依拠するという意味で「古派」を名乗る宗派。派祖は8世紀にチベットへ仏教を伝えたパドマサンバヴァということになっているが、実際にそのような古い伝統をもっていることを否定する説もある。
ニンマ派の教義を整理したのはロンチェンパ klong chen pa (1308-1363) である。
九乗
ニンマ派には九乗というものがある。迷いから悟りへの乗物ということから、仏教の教えを乗という。大乗、小乗、一乗などという言葉がよく知られている。声聞乗は釈尊の弟子など小乗をさし、独覚乗は独りで覚るものの誰にも説かない者をさし、菩薩乗は大乗仏教の修行者をさす。残りはタントラ仏教すなわち密教である。あとになるほど、高く深い教えとなると考えていたようだ。
方便父タントラ(無上瑜伽タントラ)は「性」に関することが多く、性的なものと忿怒をコントロールしながら、それ利用して悟りへと引入するものらしい。
どちらにしても、性的なものは、元や明(中国)の後宮の猥褻な興味をそそり、あるいは中国に高僧が招かれる度にタントラ仏教の神通力を求められたりして、チベット仏教にとっては不幸なことであったに違いあるまい。
| 顕教 | 1 | 声聞乗 | |
| 2 | 独覚乗 | ||
| 3 | 菩薩乗 | ||
| 外タントラ | 4 | クリア乗 | 所作タントラ |
| 5 | ウパヤ乗 | 行タントラ | |
| 6 | ヨーガ乗 | 瑜伽タントラ | |
| 内タントラ | 7 | マハーヨーガ乗 | 方便父タントラ (無上瑜伽タントラ) |
| 8 | アヌヨーガ乗 | 般若母タントラ | |
| 9 | アティヨーガ乗 (1)心部(セムデ) (2)界部(ロンデ) (3)秘訣部(メンガクデ) | 不二タントラ |
ゲルク派 (dGe lugs) 黄帽派
チベット仏教諸派のうち、最終的に最も優勢になった宗派である。開祖はツォンカパ・ロサンタクパ Tsong kha pa Blobzang grags pa (1357-1419)。当初はガンデン派、ゲデン派、新カダム派とも呼ばれ、中国では黄帽派と呼ばれる。
カギュ派発祥の転生活仏制度をもととした、ダライラマ政権を基盤に強大で圧倒的な宗派となる。
開祖ツォンカパは修行時にサキャ派やカダム派の教学を修得し、帰謬派の中観哲学と、カダム派のラムリム(道次第)、密教のグヒヤサマージャ・タントラ(秘密集会)を最高のものとする宗派を創設した。
ツォンカパとその弟子、ダルマ・リンチェン Dar ma rin chen (1364-1432)と、ケートゥプジェ mKhas grub rje (1385-1438) を「三父子(ヤプセー・スム yab sras gsum)」とする。
チベット仏教の意義と特徴
チベット訳の経典
チベット語の翻訳経典は実に豊富である。インドのサンスクリットからチベット語への経典の翻訳は、逐語訳という特徴をもつ。よってサンスクリット原典が散逸したり、異本があったりしたとき、その経典の元のサンスクリット本の推測することも可能で、貴重な資料となる。
対して、玄奘三蔵より前の漢訳の旧訳は逐語訳というよりは意訳であり、サンスクリットの底本は伝えられていない。
中国辺境域や元・明・清朝廷への影響力
サキャ派のサキャ・パンディタ(1182-1251)が侵攻してきた元との交渉を担い、随行したドゴン・パクパ(1235-1280)は元の帝師となった。チベット仏教は元の皇室の帰依を受けた。中国辺境で信仰されていたチベット仏教を受容する政治的配慮もあったのか、漢民族の明になってもチベット仏教は皇室で信仰され、あるいは性的な秘儀が後宮の興味をそそった。清は中国北方の満州族の政権であり、もともとチベット仏教が信仰されていたそうである。
このように、チベット仏教はチベット高原だけの仏教ではなく、中国やその辺境地域にまで弘まっていたのである。とくに、中国やモンゴルの皇室にて信仰されたことの地政学的な影響は計り知れない。
論理学と全ての宗旨を学修すること
アティーシャ(982-1054)が、部派仏教(小乗)から密教までの全仏教を意義あるものとして、後のチベット仏教を方向付けたことは既に述べた。日本仏教を考えると、どうも宗派仏教で自分の宗派の勉強しかしない。やはり、部派仏教(小乗)、大乗、インド仏教学を含め広く他宗派の勉強をしてゆくことが、日本の仏教指導者に求められていないだろうか。
また、ある宗派の僧侶の教育課程の資料を見たが、最初に徹底的に論理学を叩き込まれる。本来インドの仏教は論理的であり、それは理にかなっている。また、日本仏教にとっても次代に仏教を伝えてゆくには論理的な思考と説明は不可欠である。ことのことは我々も学ばなくてはならない。
チベット仏教年表
| 7世紀前半 | 吐蕃のソンツェンガムポがチベット統一 ソンツェン・ガンポ王の晩年、 唐とネパールから迎えられた王妃がそれぞれ、 ラモチェ(小招寺)、トゥルナン(大招寺)の2寺を建立 王室には仏教信仰が残る |
| 761年 | ティソンデツェン王が仏教を国教化する決意、使を唐やネパールに送る |
| 775年 | 創建にかかる |
| 779年 | チベット人の僧に初めて説一切有部の具足戒を授けて僧伽(サンガ)を発足 この頃からサンスクリット仏典の翻訳事業がはじまる |
| 786年 | 敦煌が陥落 敦煌から招かれた摩訶衍が禅の教えを流行させた やがて、インド系仏教徒との間で宗論が起った 王はインドからカマラシーラ(蓮華戒)を招いて摩訶衍を論破させ、 インド仏教を正当とした |
| 1042年頃 | アティーシャが西チベットに招かれる |
| 1056年 | カダム派の派祖ドムドゥンがラデンの僧院創建 |
※以上は、佛教大学四条センターの仏教探求講座にて平成13年3月8日に小野田俊藏先生の講義資料と受講したノートからおこした内容である。