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近松門左衛門

近松墳墓考

 

同志社国文学 第三十号(昭和六十三年三月二十日)

近松墳墓考

〜広済寺本墓説〜

向井 芳樹

 現在、江戸を代表する浄瑠璃・歌舞伎の作者近松門左衛門の墓については、文学大辞典や演劇大辞典を始め、全集・講座・特集・研究書などの解説では、大阪の谷町の法妙寺と、尼崎の広済寺に墳墓があると、二つの墓を併記するのが、通説となっている。

 しかし、正確に言えば、大阪の法妙寺は、十数年前に大東市の野崎に移転して、一九八○年に新たに近松門左衛門の蔭墓を作っているので、三つの墓があると言わねばならない。法妙寺跡付近にある墓と、広済寺の墓とが、共に国の史跡指定を受けており、通説を書き改める必要はないのだが、二つの墓の相互関係や前後関係については、まだ検討する余地が残されている。

 共に国の史跡指定を受けているので、両方を「本墓」だとする説、両方とも「本物」だとする説、両方ともに「供養墓」だとする説などがあり、本墓は別にあるはずで、物的証拠はないけれども、京都の本圀寺にそれがあったらしいとする説などもあって、問題はまだ残されているようである。
 一九八五年十一月の日本演劇学会で、私はこの間題について、広済寺を本墓とする説を発表した。短い時間の発表であったために、十分に意を尽くすことが出来なかったので、ここで、そのときの考証の過程を詳しく述べてみたい。

 杉森家系図が発見され、近松門左衛門の本名や父親・兄弟などの実名が明らかになり、その系図の検討から、彼の出生地が越前であることや、疑う人さえあった武士の出身であることなどが確定し、同時に彼の辞世の文の内容の信憑性もはっきりして来た。

 例えば、彼の父親の杉盛信義については、系図には、「初めは斎之助、後に市左衛門と改め、越前宰相忠昌公に奉仕、児小姓を勤め、三百石の食禄を賜ひ、(中略)後に京都に牢浪し、六七歳で卒す。洛本国寺に葬る。(註、現在の本圀寺)智妙院道喜日勘居士と号し、石碑有り。」と書かれていた。二十数年前にその父親の墓石の塔石 部分が発見されたために、系図自身の信憑性も証明されたのだ。また、それが近松門左衛門によって建立された父親の墓であるらしいと推定され、近松と本圀寺とのつながりが問題になった。同じ系図に、近松門左衛門の本名が信盛だと書かれており、「信義の次男、後に近松門左衛門と改め、一条禅閤恵観公に奉仕し、洛に卒す。」と書かれていたことから、近松が、書かれているとおり、京都で死んだのならば、父親の墓のある本圀寺に彼も葬られている筈だという考えが有力になってきたのである。

 しかし、近松門左衛門の死んだ場所は、現在の所、大阪であると言うのが通説であるし、京都とする手懸かりはこの「系図」の記述以外にはないので、その点でもまだこの説には無理があるし、父親の墓石の発見以外に近松門左衛門に関する一切の手懸かりが、本圀寺には残っていないので、これ以上は、検討の仕様もない。本圀寺本墓説は、吉くは木谷蓬吟氏(『私の近松研究』「近松墳墓物語」一九四二年)によって提唱された。その時点では、まだ父親の墓石も発見出来ない状態であったから、この説は「その端緒さへ掴めない」と嘆いておられるにとどまったが、やっとその端緒は出て来たというところである。最近、本圀寺説を主張する尼崎在住の古老の珍説が出ているが、「ある新聞記事(いつとも、どこのとも示されていない)によると、本圀寺で移転作業の際、近松の父親の墓の近くから、近松門左衛門自身の小さな基が発見された。が、それが近松門左衛門の墓であると誰も気が付かないために、そのまま破壊されてしまった。それが後で判明したために、檀家の間では問題になっている」というその文章自体に自己矛盾があって、証拠には、到底なり得ないことを証拠にあげたものである。破壊されたものが、何故そのときになって突然近松門左衛門のものだと判明したのか不思議であるし、もしも、破壊されていてもそれによって判定出来るだけのものが残っているのであるなら、これは当時の近松研究者が見逃すことは出来ないので、専門家の誰も知らないうちに処分されることはあり得ない。近松門左衛門の父親の墓石も、上部の塔石の部分だけが発見されたので、基盤の台石部分はその当時から存在が確認されていない。しかも、塔石部分は、あちこちに移動していた痕跡があって、台石部分の調査を困難にしていたのが、発見当時の状態であった。その父親の墓石付近から、近松門左衛門の墓が発見されたというのは、あまりにも見え透いた作り事としか考えられない。さらに、もう一つ根拠として、本圀寺の梅本日政管長にその吉老が質問して、管長から「本圀寺にありました」と言う証言を得たことをあげておられる。自分一人が聞いたという伝聞証拠だけであり、何故か、その後五年以上経過しているのに、確認の作業を全然しておられないので、主張するための根拠としては、甚だ信憑性の薄いものになっているといわざるを得ないものであるから、ここで取り上げる必要もないのだが、私の日本演劇学会での発表の後で書かれたものであるから、このような文章(『歴史と神戸』26巻4号・「尼崎の広済寺は近松門左衛門とは深い由縁はなかった」西村勇作)は考証にもなっていないのだということの指摘だけはしておかねばならない。

 最初に、近松門左衛門の戒名の検討から始めたい。
 近松門左衛門の自筆の辞世文は、先に挙げた系図の発見などによって、間違いなく彼の書いたものとして扱って良いものと考えられている。その終わりの部分に、彼は「入寂名 阿耨院穆矣日一具足居士」と自分の戒名を書き付けている。生前に付いていた戒名なので、「生前戒名」というのだとか、近松が自分で付けた「自作戒名」だとかと、江戸時代の随筆やその後の研究書には解説されている。

 『今昔操年代記』(一七二七年)は「阿耨院穆矣旦具足居士」と「日」を「旦」に書き写し損じているし、更に、『竹豊故事』(一七五六年)もその間違いを続けている。しかし、『羇旅漫録』(一八○三年)では、正しい戒名の「阿耨院穆矣日一具足居士」に戻っており、作者の滝沢馬琴は「阿耨院の法号は近松みづからつけおきしなり。」と注記している。戒名は、宗派によっても異なるし、近松門左衛門は日蓮宗の宗徒であったから、日蓮宗では戒名ではなく、法名と言わなければならないし、(ここでは戒名の語で統一しておく)また、日蓮宗では「日号」と言って「日」の文字を用いることになっているので、「旦」の字に間違えたのは、宗派の問題と戒名には偶数の文字を使用するという知識に欠けていたことを示している。また、自分で付けたという解釈も、戒名の常識に欠けていたことを示している。その理由は次のような常識によって明らかになる。「院」(院号)と「居士」(位号)を除いて、残りの文字の数を数えると、八字になる。八字戒名は大変に格の高いもので、近松のような武士を捨てた浄瑠璃作者の格では、付けることの出来ないものである。近松門左衛門は、自分の作品の中で、何度か作中人物に戒名を付けているので、戒名についての常識があったと考えられる。辞世文や辞世の歌の謙虚な内容から考えても、自分を誇示するような戒名を自分で付けるとは考えられない。授けてもらったものと考えるのが、戒名の付け方の常識的な考え方である。

 もう少し、近松門左衛門の戒名の意味について考えておこう。
 阿耨院穆矣日一具足居士は、五つの部分に分げることが出来る。最初の三字「阿耨院」は「院号」というもので、道元の『正法眼蔵』にも出て来る経文の語句を取っている。普通に行われている方法である。次の二字「穆矣」の部分は「誉号・雅号」というもので、使われている文字にも、功績を称える意味をもっている。「日一」の部分は「道号」というもので、「日蓮宗」の場合は、日蓮の一の弟子という意味だとも考えられるが、しかし、近松門左衛門の家紋が「丸に一の文字」なので、その「一」を取ったのかもしれない。次の「具足」はいわゆる「戒名」と言われる部分で、ここには本人が、生前に親から付けられたものではなく、自分で自分に付けた名前、例えば雅号、俳号などのペンネームがそれであるが、それをここに用いるのが戒名を作るときの慣例である。近松門左衛門は生前「平安堂具足居士」と手紙などに署名しているので、彼の雅号がここに採用されたことになる。最後の二字「居士」は「位号」であるが、もっと格が高くなるなら「大居士」になる。もし、「院号」に「殿」が付き、それは「院殿号」になるが、これが終わりに「大居士」が付いて、上下呼応するような戒名になると、もうこれは格の高い大名でないと授かることの出来ない大変格の高い戒名になってしまう。また、「居士」の下の格の位号には「信士」があるのだし、何もつかないものまで、何段階かの位号の格があり、「居士」が高い「位号」であることは間違いのない事実である。

 今一つ、比較の例をあげると、近松門左衛門の浄瑠璃を出版していた大阪の本屋の正本屋山本治重夫妻の墓が、同じ広済寺にあり、近松夫妻のすぐ近くに並んで建っている。寺に寄進されていた彼の木像が、長い間、近松門左衛門の木像だと間違われていた程で、寺とも、近松とも関係の深い人物である。妻が夫より先に死んだので、彼は妻との比翼墓(夫婦の戒名を一つの塔石に彫るもの)を生前に作っていたのである。彼らの戒名は、夫の方は「全波院受楽日久居士」と妻の方は「正興院受貞日持大姉」である。それぞれ六字戒名で、夫婦ともに同じ格になっている。近松門左衛門に比べると、二字少なく「戒名」の部分が少ないことが判る。この戒名も勿論、広済寺の住職日昌上人が付けたに違いない。近松門左衛門の戒名の格をここからも判断することが出来る。

 さて、この戒名は、近松門左衛門のことをよく知っていて付けたものであることは、以上の考察によって明らかである。また、近松を称える意味をもっていることも、戒名の常識に従えば容易に理解することが出来る。近松門左衛門が自らの死を予感したときに、この戒名を彼に授けることの出来る人は、彼の周りにはそんなに多くいるはずはない。当然、それは、僧侶である。近松門左衛門は、この生前に授けられた戒名の意味を知っていたから、「入寂名」として、この戒名を喜んで、辞世の文に書き込んだと考えられる。自分で付けたものでないことは、戒名の意味の考察から明らかになったはずである。

 それでは、彼に戒名を授けた人はだれか。
 現在までの近松門左衛門の伝記研究の成果に従えば、先に触れた広済寺の住職日昌上人と言うことになる。現在、広済寺に残っている近松門左衛門との関係を示す物的証拠を凌ぐような証拠は、縁があるとされる法妙寺にも、本圀寺にも残っていない。関係が深いと考えられるその他の寺ないし、僧侶もいない。現在、広済寺に残っている近松門左衛門を巡る伝承の総てが正確なものとは言えないにしても、近松門左衛門が広済寺に対して、金銭的なものを含めて、母親の菩提供養のためなど、色々と寄進もしており、貢献の度合いが高い事は、これらの現存する物的証拠によって明らかである。広済寺の日昌上人から、近松門左衛門が格の高い戒名を授けられる必然性の高いことは、ここから考えても明らかである。

 更に、広済寺に近松門左衛門の墓がいち早く作られたことも、この判断の証拠になる。儒教の考え方も影響していると思われるが、仏教には親の戒名の格を子が筒単に越えてはならないという考え方がある。近松門左衛門の父の戒名は、先にも挙げておいたが、六字戒名で、系図には「居士」の位号がついているが、発見された墓石には、「院号」はついているが、位号の「居士」がついていない。父の方の戒名の格が低いことは明らかである。いくら父の墓が京都の本圀寺にあっても、近松の遣族が余程の寄進でもしない限り、近松門左衛門に本圀寺側が格の高い戒名を授けたり、過去帳に載せて供養したりはしない筈である。この寺の過去帳はかつて、木谷蓬吟氏(前掲書)によって調査されたらしいが、近松門左衛門はもちろん、父の戒名も確認されていない。近松については、元々ないものだから見付かるはずはないと考えるべきである。

 ここで、法妙寺と広済寺の二つの墓の前後関係を考えねばならない。
 一番最初に近松門左衛門の墓について記述したものは、近松門左衛門が死んでから約九十年ほどたった『卯花園漫録』(一八○九年)である。そこには、「墳墓知れり。摂州久々智の広済寺過去帳に法名あり。」とある。その六年前の『羇旅漫録』(一八○三年)には、「予正三を訪ふて近松が墓所を問ふに正三も知らず。久々智の広済寺の過去帳に戒名あるよしをかたれり。」とあって、過去帳の戒名の存在については確認出来るが、墓の方は不明ということになっているから、『卯花園慢録』の記述を最初のものとし、過去帳が手懸かりとなって墳墓が確認されたと考えることにする。

 ところが、それから八年後の『南水漫游拾遣』(一八一七年)には、「墳墓は八丁目寺町法妙寺にあり。また久々知広済寺の過去帳にも法名有」とあって、初めて法妙寺が出て来る。この記述では、広済寺には墓がなかったとも解釈することも出来るので、法妙寺が先だという説が初めて出て来ることになる。
 それは、大田蜀山人の『平安堂近松翁墓碣』(一八二一年)である。「その墓浪華谷町法妙寺にあり、いま断碑となる」の記述は、浜松歌国の『南水漫游拾遣』から僅かに四年後であるから、「断碑」という表現には理解しがたいところがあるが、梅園主人の頼みによって「墓碣」を書き、(現在では間違いであることが明らかになっているが)、近松を長門萩の人としたり、十一月二十一日歿にしたりしている。それまでの資料がいずれも、十一月二十二日歿としているのに、あらたに二十一日説を出して来ているのに注目する必要がある。何故なら、現在の法妙寺の墓石には、享保九年十一月二十一日の歿年月が彫り込まれているからである。とすると、現在の法妙寺の墓石はこのとき、すなわち、一八一七年に新たに作られたということになる。壊れたのを補修したというのなら、日の異同の説明が出来なくなる。

 次に、『浪華草』(刊行年月不明)が、両方の説の折衷説の形で出て来る。
「近松門左衛門墓。墓は谷町寺町の法妙寺と摂州久々智村の広済寺の両所にのこれり。その墓石ともに、同質間形にて、ささやかなる自然石に、「阿耨院穆矣日一具足居士、一珠院妙中日事信女」と夫妻の戒名を二行にゑりつけたり。法妙寺は近松氏代々の墓所にて、右の外に同家累代の墓石一基、本堂の裏手にあり。広済寺なるは、かの翁晩年よしありて、寺島の尼崎屋吉左衛門がりに退隠してありしに、尼崎屋のせがれ、出家して、釈号を日照とよび、当山を建立し、翁亡くなりてのち、追善営むとて境内に墳墓をまうけたるなりとぞ、両寺とも過去帳に、近松夫妻の法名を載せ、朝夕の追善今もおこたらず。」
 現在の状況に、この時点でほぼ一致したことになる。
 ここでは、法妙寺が近松家代々の墓所で、広済寺の方は日昌上人が追善のために建てたとしている。
 ここまでの文献資料を整理してみると、次のようになる。

一、戒名の中の「日一」が、「旦」に問違えられていたこと。
   『今昔操年代記』(1727)
二、享保九年十一月二十二日に死去したこと。
   『竹豊故事』(1756)
三、広済寺の過去帳に近松門左衛門の戒名が書かれていること
   『羇旅漫録』(1803)
四、戒名の誤字が訂正されたこと。
   『羇旅漫録』(1803)
五、戒名(法号)は、自分で付けたもの。
   『羇旅漫録』(1803)
六、終焉の土地は大阪であること。
   『卯花園漫録』(1809)
七、墳墓が知れたこと。(広済寺か)
   『卯花園漫録』(1809)
八、墳墓は法妙寺にあること。
   『南水漫游拾遣』(1817)
九、十一月二十一日に死去したこと。
   『平安堂近松翁墓碣』(1821)
   『假名世説』(1825)
十、十一月二十一日死去・広済寺墳墓説が出ること。
   『江戸本庄柳島妙見菩薩境内石碑』(1828)
十一、十一月二十七日に死去したこと。
   『嬉遊笑覧』(1830)
十二、十一月二十一日死去・法妙寺墳墓説が続くこと。
   『聲曲類纂』(1839)
   『京攝戯作者考』(1849)
十三、十一月二十二日説の復活のこと。
   『異間雑稿』(1837)『傳奇作書』(1840)
   広済寺説と法妙寺説の並立のこと。
   『浪華草』(年代不明)
十四、近松の妻の戒名「一珠院妙中日事信女」が記載されること。
   『浪華草』(年代不明)

 木谷蓬吟氏は、『私の近松研究』で墓の問題の通説を、次のようにまとめておられる。「従来の通説によると、久々知広済寺の墓を正当とし、大阪法妙寺のは其模倣だと言ふことになつてゐた。」
 先に挙げた文献からでは、この通説は出て来ない。明治以降の研究では、これが通説になっている。その検討は今はしない。

 木谷氏は、この通説に対して、近松門左衛門の墓に妻の法名が併記されていることに、疑問を持たれ、法妙寺と近松門左衛門との関係を詳しく調査された。かつて、近松研究者が法妙寺の調査にでかけられたが、住職が協力せず、不愉快な思いをされたことが、その著書に書かれたことがあったが、木谷氏には、そうした問題がなく、過去帳の丹念な調査によって、新しい事実が発見されることになった。
 近松門左衛門の妻は、俗名は不明であるが、松屋太右衛門母で、松屋の家の歴代の菩提寺が法妙寺であることが判明した。彼女の戒名も没年月も確認出来たのである。享保十九年二月十九日で近松門左衛門に遅れること十年である

 その結果、木谷氏は近松夫人の実家が松屋で、その菩提寺が法妙寺であるから、戒名併記の墓の建てられる理由が法妙寺にあり、「妻女一珠院が生存中、自己の逆修を得て翁の法名と併刻し、その菩提寺法妙寺に建立した。」と推理されたのである。その説に従えば、法妙寺の墓は享保十九年までに建てられたことになる。そして八十年か九十年の間、大阪・江戸の文人や演劇関係者に知られる事なく、ひそかに建っていたことになる。また、大田蜀山人が墓石の再建に当たって、この事実に触れないのは、近松門左衛門の子孫と称する縁の人がいるだけに、少し不自然と言わざるを得ない。

 しかし、この木谷説は、支持され、法妙寺の墓石の史跡指定の根拠になったことは明らかで、私なども、戒名の再検討を始めるまでは、これに従い、法妙寺と広済寺ともに有力な本墓と考える通説によっていた。
 木谷氏の研究成果は、私には別の結論を教えてくれたのである。 まず近松の妻の戒名を検討する必要がある。「一珠院妙中日事信女」は六字戒名で、先に本屋の山本治重美妻の戒名に近い格である。ただ、山本夫人の方は、「大姉」で「信女」よりも一段格が高い。近松夫人の戒名は、山本夫人よりも格が低くても、それは比較する意味をもっていない。彼女の実家の一族の戒名と比較する必要がある。先にも触れたように、子は親の戒名の格を越えることが出来ないのが原則である。女性と男性の間にも格差があったようだから、彼女の六字戒名の格が、一族の戒名の格に較べて高いのは、菩提寺の原則に抵触するはずである。彼女の近親者と思われる人物の戒名で、木谷氏が挙げられているものを並べると、次のようになる。

 妙吟 良仙 顯本妙退 了善日理信士 道秀
 妙隣 妙室信女 道閑 妙光信女

 原則的には、二字戒名で、「位号」もついていないし、高くても「信士・信女」の格である。ただ過去帳の調査なので、過去帳には「位号」が省略されていることもあり、断定は出来ないが、男性の場合でも、彼女の格を越える戒名がないという事実に注目する必要がある。妙法寺では彼女だけに生前に、これだけの格の戒名を授けるとしたら、多大の布施でもしなければ考えられないことである。外の寺や他の僧侶によって授けられたのなら、これを供養する場合拒否することはないから、格の高いまま、過去帳に混在することは不自然ではない。木谷氏は墓石の裏面の没年月が近松門左衛門のだけ、戒名のちょうど裏に当たる部分に書かれており、彼女の没年月が書かれていないこと、その部分が空白になっていることに気が付かれ、彼女が生前に自分で墓を建てたのだと推定された。戒名を誰に付けてもらうかについては、考えておられなかったようである。広済寺の日昌上人が近松門左衛門の戒名に準じて、彼女にも生前の戒名を授けたとすれば、この疑問は解決する。

 近松門左衛門の八字戒名に較べて、妻のそれは二字少ないだけではなくて、「居士」に釣り合う「大姉」よりも一つ下の格の「信女」が使われており、近松の大きすぎる戒名の格に控え目な形で並んでいるのである。それなりに釣り合いを考えたものと言うことが出来る。

 近松門左衛門の死後、その墓が建てられるまでの間、(それも彼女が死ぬまでの十年間に限定されるが、)何らかの理由ですぐに墓が建てられなかった。広済寺の日昌上人が、近松門左衛門に戒名を授けたこともあり、夫人にも死後の世界での釣り合いを考えて、夫に近い格の戒名を授け、比翼墓を作ることを夫人に提案したと考えられる。逆修の墓を本人(この場合は夫人)の許可なく建てることは無理だから、夫人の了解なしには、このような形の墓は建てられないはずで、広済寺の墓は夫人に戒名を授けることが引き金になって、近松の遺族の了解のもとに建てられたと考えても、無理なところはないはずである。

 現在の移転した法妙寺は、近松門左衛門の縁を残すために、新たに元の法妙寺の墓を模して陰墓を作った。形だけは自然石で、色もやや似ているものを選んでいる。しかし、戒名の文字は模していない。さらに、裏面の近松門左衛門の没年月の文字は、もとの二十一日を守っているが、その位置は真ん中に変えている。いずれも一つの判断をしたものと思われる。

 広済寺の墓を妙法寺が模したときは、文字もその位置もかなり正確に写そうとしている。「日」の文字が、「月」のようにみえる字体の特徴も写されている。この尊重の仕方に意味があるはずである。
もし、外に本墓があるのなら、それを法妙寺は模して作れば良いはずである。京都の本圀寺に本墓があったのなら、それを模して作るはずである。広済寺にしか近松門左衛門の墓は存在しないから、大阪に新しく墓を作るときに、広済寺の墓を写したのである。法妙寺の墓は明らかに供養墓である。元々一つしかなかった墓を本墓としないで、どこに本墓を求めることができるだろうか。二つとも供養墓だというのは、本墓が別に存在するときにだけ、成立可能な意見になりうるが、現在の段階では成立不能といわざるを得ない。

 戒名が、近松門左衛門の本墓の所在を明らかにする重要な「鍵」であった。
 広済寺・法妙寺のいずれの墓も、本墓・供養墓の違いがあっても、二百年程の間、近松門左衛門の基として伝えられて来た史跡であり、文化財であることに変わりは無い。為にするような議論だけは慎んで、偉大な劇作家の魂の住家を守って行きたいものである。

※ この論文に関して、原文では法妙寺であるべきを妙法寺とする誤植、日昌であるべきを日照とする誤植があり修正した。

※ 向井 芳樹先生の御厚意を得て、この論文掲載の許可を得た。この場を借りて深く感謝申し上げる。

※ 掲載方法は印刷された論文をOCRで読みとって修正したものである。留意して校正をしたが不十分かも知れない。このページはあくまで参照用であって、学術的資料として読む場合は原本にあたって欲しい。

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